猫がお酒の瓶倒して中身ガーってこぼれてあらゆる機械が全滅する感じで。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2008年08月07日 (木) | 編集 |
作者が架空の世界の中で架空のカリスマを作り上げるなんていうのは、考えてみれば作り話としては何の不思議もないことなのですが、SFなどでない限り(時にはSFでも)あくまで私たちが現在生活している価値観や文化なんかがベースになっていることが「足かせ」あるいは「媒体」となって、気がつくと作者の術中に嵌ってしまうと言うことはよくあります。

ようは、主観をいかに上手に利用するか、が、そしてその主観を上手に混乱させるかが、作り話の評価の大きなポイントになるのだと私は推し量っています。


pasokonn no tyousi waruku natta node ika hennshuu tyu

スポンサーサイト
ブログのエントリー数を増やせばきっとアクセス数も増えるはずの巻。
2008年08月01日 (金) | 編集 |
コメントの返信。

あんまり書いたブログとは関係ないかもですけど、村上春樹で言えばデレクハートフィールドが存在しないのに存在した頃が一番面白いなーと思うんですよ。
マンガで言えば初期BECKのダイイングブリードなんですよ。途中からダイブリは普通にマンガに登場してきちゃったのでアレですけど、露出が少なかった初期はダイブリって本当にあるバンドなんじゃないの?っていう人が少なからずいたんですよ。というのもBECK始まったばっかりの頃にダイブリを検索して、「このバンドのCDが見つかりません、廃盤なんでしょうか?」みたいな書き込みというかホームページを見つけたのを覚えてるんですね。僕もダイブリのCD探したくらい、実際にあるバンドなのかもしれないと思ったんですよ。若かりし高校2年生。1年かな。

で、攻殻機動隊のSACを見終えたんですが、サリンジャーは卑怯だと思ったんですね。実際に存在してる作家を記号で使っちゃえば簡単にわかってもらえるし(サリンジャーくらい知ってるでしょ?みたいな鼻につく態度は置いといて)、なんかそういう感じがして嫌でした。サリンジャー的ポジションを完全に作品内のオリジナルな人物として扱おうとすれば、描かなきゃいけない描写というか説明がめちゃくちゃ増えて大変ですよね。そうやって視聴者に共通の前提を作らないといけないですから。それはものすごく面倒なんだけど、そういうことをやろうとする姿勢はやっぱり評価されていいのではないかと。だからといってアオイのかっこよさは永久に不滅だし、十分面白かったわけですが。2ndGIGを見てるわけですが。

要は現実を参照して物語を作るか、作品内の設定を徹底するかっていう大きな違いがあるんだろうなーと。んで、現実の参照項の中にも「サリンジャー」みたいな誰でも知ってると思われる記号と「コントラプンクトゥス?の5声目」みたいなぐぐってWikipedia読んでもわかんないような記号っていう、知識レベルの差(中心/周縁)みたいのがあって、誰でもわかる現実を参照するのはケータイ小説的で、現実にあるんだけどちょっとやそっとじゃわからないものを参照するのが文学的とされてるんだろうなと。完全にすべてをフィクションで作りあげるのがライトノベル的なんだと思います。

で、時代はケータイ小説だよと。一冊も読んだことないですけど。そもそも一冊っていうのかな…。

そんでさらに思ったんですけど、ウェブ上でただ文章を読むっていうのは相当もったいないことだと思うんですよ。ウェブ上っていうかパソコンみたいな機械を文字読むだけのために使ってる状況って、かなり文化的に貧しいんじゃないのかなと。
だから文中の音をPCが勝手に読み取って再現するようなアプリがあったり、そういうウェブサービスがあったりしてもいいと思うんですよね。例えば「コントラプンクトゥス?の5声目に4WDのエンジンと雪を踏みしめるタイヤの音が加わる。」にそれぞれリンクが張ってあって、踏むと実際にその音楽なり音が再生される…とか、そもそも画面をスクロールさせて、この文章に来たら勝手に再生されるみたいな。でもそれって小説なの?っていう話になって、やっぱ総合芸術っしょ、映画っしょみたいな志向になったり、文字だけで情報伝達をするのが小説だみたいな話になったりするのかなー。

ぐだぐだ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。