猫がお酒の瓶倒して中身ガーってこぼれてあらゆる機械が全滅する感じで。
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【短編物語ZIMA『短編物語NEKO「ねぇ、秒速5センチメートルじゃないんだって。雪の落ちるスピード。」』物語。】批評。
2008年07月30日 (水) | 編集 |
短編物語NEKO「ねぇ、秒速5センチメートルじゃないんだって。雪の落ちるスピード。」
http://mekajima.blog10.fc2.com/blog-entry-5.html

『短編物語NEKO「ねぇ、秒速5センチメートルじゃないんだって。雪の落ちるスピード。」』物語。
http://mekajima.blog10.fc2.com/blog-entry-6.html

端的に言って上はケータイ小説的であるのに対して、下は所謂文学純文学に位置する。
上のケータイ小説的要素としては「パンッという乾いた破裂音」のような簡素な表現があげられる。
一方で下の文学的要素としては「タチアナ・ニコラーエワのバッハ」「コントラプンクトゥス?の5声目」といった固有名の挿入を指摘できる。
とかいって実際ケータイ小説的とか純文学的とかは適当に言っただけなのでどうでもよくて(正しいかどうかも知らなくて)、要は上と下の文章には大きな差異があるということが言いたかっただけであります。

さて、巷ではケータイ小説的なものが馬鹿にされているように感じる。
印象論に過ぎないが、理由は「頭悪そうな文体」「内容がない」「誰でも書ける」などである。実際に言われているかは知らない。2ちゃんねるのニュー速あたりのスレ適当に読んでたらそんな感じのレスが目に付いた程度のものでしかない。
でも話が進まないので、とりあえずケータイ小説的なものは下に見られているという前提にしておく。
そして、その前提の上で私はケータイ小説純文学に対する下克上を宣言したい。

ケータイ小説が純文学に勝るポイントとは一言で言って、読む人を拒まないことにある。
来る者を拒まず、去る者を追わない。それがケータイ小説の最大の魅力である。
文学は教養を必要とする。むしろ書き手はここぞとばかりに自らの教養をひけらかさんと力を入れる。バカめ、それでは私のような無教養の者はその文章を理解することはできないのだ!そんなこともわからないのか愚か者!
なんだと?お前のようなバカに読んでもらうために書いているんじゃないだと?じゃあバカは置いてけぼりか!貴様・・・バーカバーカ!差別だ!貴様のしていることはバカ差別だ!
・・・はぁはぁ。

教養の有無は下の文章の読み方を変えてしまう。
「粉雪の降る中を車はそろりと走り出す。
 コントラプンクトゥス?の5声目に4WDのエンジンと雪を踏みしめるタイヤの音が加わる。」
車の中と外の情景が微妙に入り混じった巧妙なこの部分は、視覚的な静と聴覚的な動という対比を強く感じさせる。しかし一方で、聴覚的な動の質は細分化されて書き込まれている。
聴覚の動の質を表現している単語は、コントラプンクトゥス?の5声目・4WDのエンジン音・雪を踏みしめるタイヤの音の3つ。そしてこれらは左から順に教養が高いとされている。はず。

コントラプンクトゥスはフーガの技法のうんぬんかんぬん(ぐぐった)ということで、バッハの曲のようだが、この日本にどれだけの数の人たちが「コントラプンクトゥス?の5声目」を知っているだろうか。
文字として知っているだけ、もしくはコントラプンクトゥスがバッハの曲という知識を持っているだけでは意味がない。ここで必要な教養は、その音楽を聴いたことがあり、思い浮かべることができることである。そうでなければ、異なる音を3つ並べる意味がなくなってしまう。音のないような車の外を眺めながら、車内で動いている音とともに移動する印象的場面は、3つの異なる音という素材が不可欠なのだ。
そして3つの音を正確に再現できる者、そうした教養を持つものだけが真の意味で文章を理解することができる。

文学は教養を必要とし、無教養な者への配慮を欠く。
一方でケータイ小説は「バキッと殴った」というような簡潔でストレートな表現を多用することで、教養を必要とせず、誰でも読める仕様になっている。明らかにケータイ小説は大多数に開かれており、文学は内部に閉じて引きこもっている。
今後益々教養が低下していくであろう日本において、ケータイ小説は優位に立つべきである。


ちなみに無教養な私は引用した文章をどう読んだのか。
文化資本的に下流でありつつ、経済資本的に下流である私は、クラシックは全く聴かないし4WDはおろか車すら持っていない。この時点で3つの教養音のうち、すでに2つが完全に想像の彼方にある。しかし、田舎育ちの私は、雪の積もった山道を親の運転する車に乗った記憶の表象は強く残っており、その時の音も把握できている。

私は唯一この音を手がかりにして文章を理解するしかなかった。つまり、この音と、ほかの2つの音とがうまくバランスをとりながら、最終的な「音のないような車の外を眺めながら、車内で動いている音とともに移動する印象的場面」を構築してくれれば良い。しかしそこで構成される音は完全な私によるフィクションの音であって、作者の意図とは遠く離れている。
しかし、逆にそれは私にとって都合の良い音を作り出すことを可能にし、結果として私のためだけの文章を作ることができたということである。私は無教養であるが故に、この場面ではこの音が重なり鳴っていて欲しいという欲求に照らし合わせて音を作り変えることができたのである。

これはケータイ小説的読み方ということができる。どういうことか。
それは、「そこで音が鳴ってたよ」と、「どういう音かは勝手に考えていいですよ」と、読者の配分によって差異が決められるような読ませ方・読み方である。これは固有名のなさと通じている。
「コントラプンクトゥス?の5声目」という固有名を「クラシック音楽」と抽象化し、幅を持たせることで文章への敷居を低くするとともに、最終的にそこで流れている音自体は読者に選択させるのだ。読者は自分の教養内にあるクラシック音楽の中から、自分の趣向にあわせて、その場面に一番ふさわしいと考える音楽を流すだろう。自分で最も最良の音楽を選択しているということは、自分を最も満足させる文章ができあがったということである。
この自己製作と自己満足の循環構造、これがケータイ小説的読書の中心を為す物であり、こうした読書法が今後純文学へと適用されるに従い、実質的に固有名が剥奪されていくこと、これこそがケータイ小説による下克上である。

眠いので適当ですよー。寝ますよー。
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コメント
この記事へのコメント
あの夜に書かれた
文章ですね。適当に書いたくせに面白い。くそ。もっと掘り下げれば、もっと面白い。もう、夏なのに、雪って、くそ。

昔っから、春樹マニアは、なんでもない風景とか行動なんかをすぐには思い浮かばないクラシック(わかる人はフフンとして、判らない人は必死でググったりする)とか教養高いと思わせる描写、贅沢はしないけど良い物は高くても身につけてるぜ(=結果的に金持ってますよアピール)俺ちゃんセンスある~チックな文章を書くのが大好きなのですね、一種の病気ですよ、病気。
2008/08/01(金) 21:20:32 | URL | 酒。 #-[ 編集]
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